2018年3月11日日曜日

3.11

震災から7年が経ちましたね。
亡くなられた方のご冥福を心から祈ります。


昨夜は、今年の初めにバイク事故で亡くなった学生時代の友達を偲ぶ会でした。
NY、新潟、群馬、東京から、懐かしい友人たちが集まり、昔の写真を見て懐かしんだり、今をシェアしたり、しんみりしたり、笑ったり、じんわりと良い時間でした。

亡くなった友人は、美容室のオーナーでありながら、美容師、ヘアメイクとしても活躍し、その上、渋谷でバーも経営していました。
この経歴からもわかるように、昔からとっても個性的で面白い人でした。

映画監督の河瀬直美さんとお仕事をたくさんしていたようで、河瀬監督がこのように残しているのをネットで見かけました。



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今までそんなことは一度もないから何かあったのではないかと連絡をとって、事故のことがわかった。意識不明の重体からの生還を願って奄美でのスタッフたちで祈り続けた。奄美の海の音をイヤホンで聞かせたりもした。1週間たち、10日たち、2週間が過ぎても彼は目覚めなかった。医者からは限りなく脳死に近い状態であるからといって臓器移植をすすめられたともいう。ドラマか何かの話を聞いているようで、現実味がない。
 日々はそれでも普通に過ぎてゆく。脳死を人の死とすることになったのは、一体いつからなのだろう。そんなに遠い昔ではないはずだ。人の死はどの状態でそれを「死」と呼ぶのか。人の死とは何を意味するのか。呼吸が停止していても、人工呼吸器を装着することで臓器は生きている。彼の事故の傷も日ごとに治癒してゆく。そして肌はまだ温かく、到底死んでいると思えない状態である。意識がないからといって、彼が私たちの声を聞いていない、聞こえていないとは限らない。誰も、彼の状況を彼として体験することはできない。人の死に差異はなく、どちらが重要でどちらが重要でないかなど、誰も決められるものではない。それでも、臓器を待っている人を救う事をよし、とする考え方の中では、彼は単なる「臓器」という物体になってしまう。
 命には、感覚があるのだろうか。命には、意識があるのだろうか。それらは、無垢(むく)で欲望や執着のようなものはなく、ただそこにある、という存在なのだろうか。深く深く命について考えている。
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震災のことも振り返り、命について考えます。色々な角度から考えます。
彼は本当に短く濃厚な人生を生きたんだなぁ。彼の過去のFBを眺めていたら、ある多忙な日の投稿に
「疲れているのに楽しくってしょうがない 生きているって素晴らしい!」
って書いてありました。生ききった彼をリスペクトです。
ありがとう。

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